「教育虐待」という言葉があります。
私がこの言葉を知ったのは、次の本からです。
古荘純一 磯崎祐介「教育虐待・教育ネグレクト 日本の教育システムと親が抱える問題」光文社新書 2015
この本では、「教育虐待・教育ネグレクト」を、
「子どもに直接的に教育指導をする親や教師などから、子どもが受ける、一次的あるいは二次的な有害事象」のことで、
「たとえ親や教師が本人のためと考えていても、本人にとっては強い苦痛や心理的なストレスを伴っていたり、本当に必要な教育を受けられていないのであれば、その概念に含まれる」
としています。
私自身、今までの特別支援学級での指導を振り返って、生徒たちに過度な要求をしてきたことがあったように思います。
例えば、通常の学級の生徒と一緒の集会等で、集中できずに動いたり声を出したりしているのを注意し、無理にやめさせようとしたこと。
授業や行事などの場面で、指示通り動かなかった(その場に求められる行動をしなかった 例えば、いつまでも次の行動に移らない いつまでもおしゃべりをやめない 自分でやったことを片付けない 係の仕事をしない など)ことに対して、注意、あるいは時によっては叱責したこと。
時間で動くことを求め、時計を見て行動できなかったことに注意したこと。等、等… 。
特別支援学級の生徒たちは、それぞれの特性があって、通常の学級の生徒が普通にできることができないことがあります。
それを、できるようになってほしい、大人になったときに少しでもできた方がいい、そういう願いからの「指導」のつもりだったのですが、見方を変えれば、それは「虐待」なのかもしれません。
一人一人の特性に応じた指導の大切さを、私たちはきちんと考え、日々の教育に当たるべきだと思います。
他に、特別支援学級の一斉指導を見ていて、はっとすることがあります。
例えば、言葉だけの説明で長々と指示をする。
長い説明は頭に入りづらいです。板書や絵カードなど視覚にも訴えるべきです。
抽象的な話、目の前にないことに関しての話も分かりづらいです。
板書に漢字を使う。
漢字が読めない生徒に対する配慮が必要です。ひらがなで書かれていても文の意味をとりづらい生徒もいます。
時計を指して、時間を指定する。
時計を実際の生活に生かすことがまだできない生徒もいます。
特別支援学級の担当は、一人一人の特性をきちんと理解し、何ならできるのか、何はできないのかをしっかり見極めなくてはいけないと思います。
その上で、その生徒が持っている力を、少しでも高めるような手だてを講じなければいけません。
つまり、適切な教育を行うためには、適切な実態把握が必要なのです。
そういうことをおざなりにしていると、その生徒に場合によっては「強い苦痛や心理的なストレス」を与えてしまうことになり、また、その生徒の力を伸ばすことができない(これでは教育ではありませんね)ということになってしまうのです。
忙しい中ですが、特別支援を必要としている生徒の教育に携わる者にとって、最も基本的な、「やらなければいけないこと」なのだと思います。
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